昭和49年10月13日 特別奉修委員
今朝の御理解に頂きました三回頂きました三回共、教典の白紙の所を頂いたんです。それで今日は、教祖様という御方は、という事でお話したんです。教祖様という御方は、という心持ちで開かして頂きましたら、28節を頂きました。もう一辺だけ読んでみましょう。教祖様という御方は人柄とか御心の状態を、私共の者に頂く時中々ですけれども、歩かれた道を歩くと言う事は、金光様の御信者のこれはもう当然の事だと。
歩かれた道を歩くと。そしてその道を歩かせて頂きながら、教祖様はこんなお考えになられたのではなかろうかと。こう云う所を教祖様はこう云う風に頂かれたんだろうと云う様な事が、実感として伝わって来るのだと思うですね。教祖様の人隣と云ったものが、そのまま私共が見習わなければならん、ですかこの御理解28節にある様に、今まではそう思わなかったんですけれども。
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに八、九分かえて退屈してやめれば掃除は出来ぬ、それで矢張り水は濁っておる様な物で、信心も途中でやめれば病気さいなんの根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」と言う。井戸ざらえの理を持ってね、教えておられる。
そこん所を言わば、どういう例えば汚い水が出て来ても、塵あくたの様な物が、井戸の中から上がって来ても、それを結局有難いと受けて受けて受け抜かせて頂く所から清水になる、しかもこんこんと尽きぬおかげも受けられたという事になるのです。唯井戸の水を使わせてもらって、下からすくい出しゃ濁るけれども、上澄みだけをすくって頂くと云った様なこのー生き方を、言わば安易な生き方とこう言うです。
さあどうかあるちゃもうこのう、さあどうか苦しい事があったら、もう人に頼むと言った様な、その人頼りと云う様な事ではないです。何処までも一心に神様に祈り、縋り貫かれたと言う事が、教祖様の信心だと思うのです。ですから成程、信心させて頂く様になって、そんならかえってこう濁り水が出て来たというね、云う様なものが出て来た。だから其処ん所を「やれ痛や、今みかげを。」という心ですよと。教祖様御自身が通っておられての御教えを、ひしひしと感じますね。
そして何か自分が、言うなら井戸は清水になる様なおかげを頂かれた所から、今度は神様の願いとか、言うならば神様がそういう受け物をというか、おかげを受けられた教祖様に、神様の方が助けてくれと言ってすがっておられる。それを今日私の事を頂いた。今日は私自身の事をまるきり教祖様のようなふうに、皆さんが聞かれると大変間違えますけれどもね。やっぱその一つ雛形の様な物はたどって、通って来たんだと云う事はが分かります。私の操っつておる船に神様が乗って来られた。同乗して来られた。
所がその船はこんなに揺れておる。ですから結局そんなら皆さんが、愈々ギリギリの時に任せ抜き切らないと云う事がです。あぁあげん船が揺れよるけん、あれが沈没しなせんじゃろうかと思うから乗れんのです。そこでです信心さして頂いて、本気で信心の修行さして頂いて、稽古さして頂いて行く内にですね。言うならば親先生任せという度胸も。もう言うならば、その揺れる船ではありますけれどもです。
揺れておる船ではありますけれども、それこそ関さんじゃないですけれども、もう船諸共という気になったら楽になったという事です。だから信心のギリギリの所はこれなんです。船諸共という気になる。さあほんに沈みゃせんじゃろうかどないじゃろうかと、不安でもう此処でもう船、船も呂と元いう気になったら安心が出来た。そこには何も言う事が出来なくなって来た。所がそこからおかげが現われて来たというのが、関さんの本当に尊い経験だと思いますね。
もう親先生任せという事は、船諸共という気になる事だと。だからそんなら船諸共になんなさいと言うても、中々なれるものじゃない。なして揺れとるこうやってがぶっと、やっぱり沈みはせんじゃろうかとこう思う。今日はこの船に神様が便乗して見えたという事。乗られたという事は、言うなら私のそういう信心に。二十五年なら二十五年間の間に溜めに溜めて来た一つの器と言う物が有りますからね。
この先を代の中に広げて行く。広めて行くという事だと。その事が神様の願いが成就するという事なんですから。私の乗っている船に、乗せてくれと言うて便乗された様な感じがする。そして神と人と。神と私達とが一緒になって、その光をこう広げて行こうという、いわゆる、光輪の世界広げて行こうとこう。【 】さんところのゆみこさんが、親先生が神様に仕えた所を頂いた。という事は私の船に神様が乗られたと言う事は、もう神様であり金光大神である。
金光大神であり、天地金乃神様である。天地金乃神様であり、大坪総一郎であると。そういう意味の事ではないでしょうかねと言うて話した事でした。そこからです。自分の小さい考えを捨て切って、神様の働きに依存する。もうゆだね任せると云う所から偉大な働きと言うね。医者が愈々見離してしもうてそれこそ治っても馬鹿になる。と言われたものがね実際生々しゅうそれが昨日今日、それがおかげになってね現われておる事実を見たり聞いたりする時です。もう只ただ恐れ入ってしまう。そういう事でしょうね。
今日佐田さんの御主人がお夢の中で頂いておられるのが「大八車が、風車になる」と頂かれたそうです。大八車といえば沢山の車が積めますし、沢山の言うならば物が運べるわけですけれどもね、言うならばこれは、何処までも人間の力という事でしょう。どんな偉大な力というても、大八車それが風車になる。所謂風の力で舞う。神様のおかげで舞うという事になって来る時に、これはもう限りのない働き。言うなら水の力を利用して、いろんな発電所なんかの働きがある様にね。
風の自然の働き。自然の恵みをそのまま利用して、舞いだしたというのが、最近の合楽の姿じゃなかろうかとこう思うですね。そういう素晴らしい働きがあっているのですから、そういう素晴らしい働きに委ねるという事です。任せるという事です。もう本気で度胸を据えてです。船諸共という気になる事です。そこから信心の姿勢が、いうならば、変わって来る。そこから、新たな運命の展開と云う様な事は、私はそう言うおかげからでなけれれば生れないと思う。
今までの二十五年間の信心は、言うなら大八車の様なおかげであった。もうこれいっぱい積んだら、これしこは積まれないという事になって来た。所がそれが風車になった。風車になった。これにはならどれだけの人が乗っても、どれだけの難儀をここに積んでも、言うならばびくともせんで済む様な働き。そういう働きが出来る様になっ、段々なって来ておるというのが、現在の合楽だとこう思うです。
私は今日の二十八節から、教祖様が、御自身の体験を二十八節に話しておられるんだと。だから例えばどうでもこうでもおかげ頂きたいと言うて、言うのは井戸ざらえをいっちょう始めようかという事なのです。そして汲み出したところが、だんだん濁った物が出て来たり汚い物が出て来たり、瓶やら割れ物のごたるもんまで上がって来ると言う様になって来た。だからそこを頂き抜かれた所に、言うならばそこのところを、元気な心で一心にすがれとおっしゃった。
そこを頂き抜いた所にです。私は所謂限りないおかげに繋がって行けれる信心の、本当のお徳の世界。光の世界に住む事が出来る。そういうおかげを神様は願っておられるのですからね。今日の御理解のように、それこそ誰が、ただ奇跡奇跡と言い続ける様なおかげを頂いておっても、それが良うなったから、お礼参りしたら、それでしまえた様な考え方の信心ではないという事です。
そこで私は、これは一つの方法なんですけれども、善導寺の原さんが、もういよいよ今日が臨終だと。もう親戚の方はお葬式のいうなら用意をして集まって来られると云う程しの状態の中にです。もしここを助けて頂くならばです。「私共が、一生、夫婦神様の御恩を忘れるだんじゃありません。朝参りを欠かす様な事は致しません」という誓いを、神様にたてられた。
それからその夜を境に、今度は反対におかげになってきた。そしてその後夫婦の信心が続けられたという事です。夫婦だけではない。子供孫達までそれに続いておるという事です。これが一つの方法だと。神様に安心してもらえる。神様も安心しておかげを下さる事が出来ると思うです。おかげ頂いたら本人ば連れてからお礼お参りしますで終わった様な信心だったら、こげん神様は悲しい思いをなさる筈はないです。おかげのやり損と言った様な、けちな考えではないですよ。
その息子が、本当に助からんならん。その氏子がもう家族から根から、先祖から、そして私共があの世に行ってからまでも、助からんならん程しの、素晴らしいものを与えたいというのが、神の願いなんですから。それを頂かずして、ただなら、もう医者が助からんと言ったのが助かりました。だからお礼参りをした。それでおしまいになったと言った様な事ではいけない。
そこでこれは一つの方法論ですよね。神様ここで本当に助けて頂くならば、原さんと御夫婦がです。それこそ一生神様の御恩を忘れるだんの事ではありません。朝参りを怠るような事は致しませんと言うて、続けられた所に、私は神様が安心しておかげ下さったんじゃないかと云う風に思うですね。そして、お参りしている内には、本当の信心も分かるだろう。お徳も受けてくれるだろう。力も付いて来るだろう。光も受けられるだろうという事になるから、神様も安心しておかげ下さる事が出来た。
ですから、私は、それがね、嘘になったら愈々いけませんけれども、もう本当に信心は分かりませんけれども、このおかげを頂く為にはです。私共が一生神様のおかげを忘れる事はない。ただもう御恩な、いっちょん忘れませんと言うだけでなくて、言うならば朝参りでもして、本当の信心の稽古をさせてもらう。そして本当の信心の、神様の願いである所のおかげ。「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と仰る。そういうおかげを受け止めさせてもらうという事。
今日私は【 】夫婦に話した事でした。これはどうでも特に取次者と言う者は、神様からです。神様の方が縋って来なさるくらいの人物に、先ずならなければだめですよと。私はね、縋りよったらからっぽ。(笑)けど、何事かある時なんか、神様が縋ってござるとですよ。あれに。ところがへこたれるでしょうが。だからはあこげなとは頼りないと思うてから、離れなさるわけです。
それをどっこいと受けてたたせて頂く様なおかげを頂いて、力を受けた時にです。言うならば、今日私のお夢の中にある様に、私の操っておる船に、神様が便乗して来なさる。もう神様が乗って御座るから大丈夫という感じがするんですね。けれどもその船は、いわばがぶっとる揺れておるけれども、そこに私は必要なのは、一心発起させてもろうた信心修行から生れる所の信心、度胸と思うですね。もう船諸共という気になる。もう不平もなからなければ不足もない。
そういう心の世界が開けて来るんです。「船諸共という気になれば楽じゃ」と楽になるです。はぁこれは乗ってはおるばってん、これは沈みはせんじゃろうかと思うたら乗っておりながら心配する。乗っておりながらあっち走りこっち走りして、迷う所におかげが本当のおかげになって来ない事になるのですよね。私は今日は教祖様の言うならば御信心のあられ方がね、この御理解二十八節にね、何か現われておる様に、今日感じましたから聞いて頂いたんです。
どうぞ。